6日からNHK-BSで男はつらいよシリーズの放送が始まりました。


先日、寅次郎関連の本を読みました。
単なる寅次郎のデータ保存型資料ではなく、当時の映画界・俳優・喜劇人の様子も交えて著者が回想するものでした。
それは「車寅次郎ー渥美清ー田所康雄」の姿を、実際に付き合いのあった著者の視点から振り返るもので、
体験に基づくセリフや記述が多く、具体性、真実味を感じました。
当時の状況を後世の人に「あたかも全部そうであったかのよう」に語るのではなく、
著者の眼という一つの視点(著者の主観が多分に入っていることの明確さ)から語っていることが、
他の本や評伝にありがちな、「渥美清神聖化」とでもいうべき記述を排していると言えます。
男はつらいよ」に至るそれまでの出演作や、当時の付き合いへの言及も多く、
男はつらいよ」で作られた渥美清像を別の角度から見る事ができます。


特に、車寅次郎は渥美清ではなく、あくまで渥美清演じる車寅次郎であること。
そして、渥美清は田所康雄の役者としての姿であり、
渥美清と田所康雄をわける必要があることに今さらながら気づきました。
このことは、当然知っている人は知っていることですし、他の映画や役者の場合でも同じなので、
今さらな感じもしますが、僕はこれまであまり気にしていませんでした。
気にせずとも楽しめているのだから、あえてその区別に意味を見いだそうとは思わなかったからです。
しかし、この区別を意識すると、「男はつらいよ」がより複雑なもので、
思っていたよりも単純な映画ではないと思うようになりました。


複雑な映画であっても単純に楽しみたい(楽しめる)ものですが、
その複雑さに興味をもってしまったため、今後同じように楽しめるかわかりません。
これまでのように、単純に寅次郎おもしろいおもしろいと思って観るのではなく、
これからは寅次郎を演じる渥美清渥美清として仕事をしている田所康雄の姿を画面から見てしまいそうで、
素直に楽しめないのではないかという不安があります。
同時に、素直な楽しみを邪魔する中途半端な知識がもたらす先入観の処理に困ってしまいそうです。
また、寅次郎と渥美清を同一視したり、もしくは「本当の渥美さんは逆にもの静かで知的な俳優であった」という評判をそのまま信じずに、この映画を観ていくことになると思いました。


そうは言ってももちろん面白く観ているのですが、「以前とは違う」という感覚があります。
前はもっと素直におもしろく感じたんじゃないか、という感覚です(といっても本当のことはわかりません)。
ある意味知らなくていいこともあるのになあ、とも思いましたが、
こういうことは時間の問題でもあったので、これからは寧ろもっと色々知っていこうと思いました。
やっかいな気分になりました。